天武天皇の白鳳元年(六七三年)に三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祀らせ、そばに一宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号しました。後に、高法寺は延暦年間天台宗となり、弘仁五年(八一四年)に嵯峨天皇の勅命により、殿堂、楼門、回廊などを新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺と改められました。盛時には衆徒四五坊、社領三〇〇〇町を有していたと伝えられます。
御祭神は、玉垂命(藤大臣(とうのおとど)・高良大明神とも称す)、八幡大神、住吉大神が祀られています。藤大臣は神功皇后の三韓出兵に大功があり、玉垂宮と神功皇后との関係が深い。『吉山旧記』によれば、藤大臣は仁徳天皇五五年に賊徒退治の勅命を受け、この地に下り筑紫を平定し、同五七年(三六九年)高村(大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫の政事を行ったが、仁徳天皇七八年(三九〇年)にこ の地に没し祀られ、高良玉垂宮と諡(おくりな)されたと伝えられます。
大善寺玉垂宮の創建については謎が多く明らかではないが、景行天皇の皇子国乳別(くにちわけ)皇子を始祖とする水沼君が当地を治められたとき、その祖神を祀ったのが玉垂宮の前身と考えられ、平成一五年(二〇〇三年)に一九〇〇年御神期大祭を終えた古社です。(社伝)
大善寺玉垂宮について
明治二年(一八六九年)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、神宮寺だった大善寺は廃され、玉垂宮のみ残って現在に至ります。
有馬藩になってからは、慶安四年(一六五一年)に有馬忠頼が 「高良玉垂宮絵縁起」 二幅を寄進し、安永四年(一七七五年)には銀弐貫五百目が下賜され楼門が再興されました。
戦国時代には度々の兵乱により荒廃し、元亀・天正の大乱で本殿、末社等悉(ことごと)く焼失しましたが、慶長六年(一六〇一年)筑後に入国した田中吉政によって復興がなされました。吉政は大善寺領として三百石を寄進し、同九年には梵鐘を、同一二年には鰐口を寄進二代田中忠政も元和四年(一六一八年)に表参道の鳥居を寄進しています。
中世期には、大荘園三潴庄の総鎮守社として朝野の尊崇を集め、建徳元年(一三七〇年)には征西将軍懐良親王への奏聞をへて「玉垂宮絵縁起」二幅(国指定重要文化財)が寄進されました。
主な社宝
絹本著色玉垂宮縁起(建徳元年銘 国指定重要文化財)
絹本著色玉垂宮縁起(慶安田四年銘)
鬼夜行事用の鬼面(赤青面・慶長銘)
鉾(鉄製・慶長九年銘)
鳥兜(頭巾・享保十七年銘)
御幡(絹製・天明十三年の墨書銘)
大善寺玉垂宮境内絵図(江戸時代 掛幅装)