塞塞神(さえのかみ)「幸神」、岐神(さへのかみ)とも書きます。この神は猿田彦神に付会され、陰陽道の信仰と習合して種々の雑説がります。当地では陰陽の性器を神体と崇め、産の神、幸の神、妻の神として信仰され祈願者はその奉賛に男性の陰相を献ずる慣わしがあります。今なお子授け、安産、縁結び夫婦和合の神として根強い信仰があります。最近は幸をよぶ神として合格祈願や商売繁盛等の勝運祈願に訪れる人も多い。
目の神様として知られるこの社は、もとは西小路区の氏神で下の境内にありました。生目八幡は、宮崎県の生目村(現宮崎市)にある神社から起こったもので、創建年代は明らかではありません。一説では平景清が平氏没落後、復讐の念を絶つために抉り取った両目を埋めて祠を建てたのが始めと伝えられます。
明治二年(一八六九年)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって大善寺は破却されましたが、鐘楼と阿弥陀堂及び庫裡(くり)が残されたことは珍しい事例です。特に、大善寺本坊庫裡は慶応二年(一八六六年)の建築で新しかったので残され、明治五年(一八七二年)に「宮本洋学校」の校舎とし三潴県に寄付されました。現在は、下の境内に移され、往時の大善寺を偲ばせる貴重な建物として、久留米市指定 の重要文化財となっています。
久留米藩主有馬氏により、天明元年(一七八一年)社前の霰側に架けられた神幸橋は、一本の石柱に支えられ、川が氾濫すると両岸に曳き寄せ流失に備えたという奇功を極めた造りで、「拔河曳橋(ばつかのひきはし)」と呼ばれた天下の名橋でした。その姿が一本の唐傘を開いた姿に似ていたので「傘橋」と名づけられましたが、惜しくも嘉永四年(一八五一年)の大洪水で流失しました。境内には当時の石柱が記念塔として残されています。
その姿が一本の唐傘を開いた姿に似ていたので「傘橋」と名づけられましたが、惜しくも嘉永4年(1851年)の大洪水で流失しました。境内には当時の石柱が記念塔として残されています。