由来について
鬼夜(おによ)は、『吉山旧記』によれば仁徳天皇五六年(三六八年)一月七日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われています。 毎年一月七日の夜に行う追儺の祭事で、一六〇〇年余りの伝統があり、松明六本が境内を巡る火祭りです。平成六年(一九九四 年)には国の重要無形民俗文化財に指定され、日本三大火祭りの一つに数えられています
鬼会について
大晦日の夜から一月七日まで、神官が斎戒沐浴して燧石(ひうちいし)でとった御神火(鬼火)を護り天下泰平、五穀豊穣、家内安全、災難消除を祈願します。 これを鬼会(おにえ)といいます。その結願の行事が七日の追儺祭(ついなんさい)・鬼夜です。鬼夜は、一月七日の午後一時から夜の十一時すぎまで行われます。
主な鬼会の行事
大晦日 … 大拔、除夜祭
元 旦 … 歳旦祭、獅子舞、開運福引き他
四 日 … 大松明(おおたいまつ)つくり
七 日 … 追儺祭・鬼夜
追儺祭・鬼夜の流れ
午後一時 鬼面尊神渡御
鬼夜祭の主神である鬼面尊神(漆塗りの箱に納められています)を安置して神殿で神事を行ったあと、尊神は鬼堂に渡られます。
午後四時ごろ、尊神は本殿に還(かえ)られます。
午後四時 鬼面尊神還御
午後七時すぎ 若衆の境内参集
大松明を廻す締込み一本の裸の若衆が氏子中から提灯、小松明(こだいまつ)を持って神社裏の玉垂公園に集まります。
大太鼓の合図で本殿から二本の手松明(てたいまつ)を先頭に行事役職者二十数名が汐井桶を担いで参道を下り、社前の川に設けられた汐井場で禊(みそぎ)をし、お汐井を汲んで神前に供えます。
午後八時すぎ 汐井汲み神事(汐井口開け)
汐井かき
この汐井口開けを待っていた裸の若衆数百人が、各松明の手々振(てでふり)を先頭に隊伍を組み、提灯、小松明をかざし気勢をあげて汐井場に向い、禊をして参道から社殿に駆け上がります。二往復する間、参道は一面火の川となります。
一番鐘を合図に境内全域の灯が一斉に消されます。
真暗闇の中で松明を持った手々振を先頭に、一番松明から順に社前で直会をし、鬼堂前に大松明の前に勢揃いします。
午後九時 タイマワシの勢揃い
午後九時半 六本の大松明に点火
二番鐘が打たれた後、暗闇の中を奥神殿から鬼火が出て、粛々と大松明に近づき一挙に大松明に点火します。
一瞬、六本の大松明の炎は闇を焦がし、火花と爆竹音をはじかせる壮観な火と裸の祭典となります。
燃えさかる紅蓮の炎の前で鉾取った、面取った、ソラ抜(ぬ)イダの赤・青の天狗による相克の魔払い神事が行われ「ソラ抜イダ」を合図に鐘や太鼓が乱打され祭りは最高潮となります。
鉾面神事
大松明始動
燃えさかる六本の大松明は、裸の若者たちがカリマタとよばれるカシ棒で支えあげて火の粉を浴びながら、勇壮に神殿を時計廻りにまわり始めます。力のはいる緊張の連続です。
午後十時ごろ一番松明は鬼堂の東側で火取りを行い、境内を下りて惣門(そうもん)をくぐり、汐井場で火を消します。それを見計らって鬼はシャグマの子どもや棒頭に護られて、密かに汐井場で禊をし、神殿に帰ります。
午後十時すぎ 惣門くぐり・鬼のみそぎ
午後十一時すぎ 厄鐘
鬼が神殿に帰ると灯がともされ、行事の終りを告げる厄鐘が七・五・三と打たれます。大松明の火も次々に消されてすべての行事が終わります。